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2009.02.22 Sunday

自己実現の檻の中で

☆これは知人の話でもあるが、よく「やりたいことが見つからない」といった物言いを見聞きすることがある。しかしオレはこうした物言いそのものに違和感を持っていて、「やりたいこと」ってわざわざ「見つける」ものなのか?と思ってしまうのである。例えば自分は絵を描いているが、それは別に「見つけた」ものではなく、自ずと湧き出た感情である。特別なものを持っていなくたって、普通に幸福を願って生きている人がいたって良いのではと思うが、どうも今の世は若者に自己実現を強要しているように感じる。

「キミだけにしかできないことがある」「キミの個性に合った仕事がきっとある」「キミの人生は一度しかないぞ」というような言葉に乗せられて、ありもしない「自分探し」に明け暮れる人を見ると、本当に泣けてくる。「そんなに無理しなくていいじゃないか。そのままのキミで十分じゃないか。『探そう』と思わなくても『やりたい』と思えることがあったとき、それをやれば良いだけのことだよ」と言ってあげたくなる。

自己実現が幸福とは限らない

今は第三次産業の時代で、「個性」が求められているんだという話はわからんでもない。しかし世の中の大半は「普通の人」で構成されているのである。今はとりあえず職業選択の自由があり、自己実現は基本的に正しいことだと言われている。しかし一方では「自分に合った仕事ってなんだろう。どこかにきっとあるはずだ」という思いに囚われ、かえって不自由な思いをしているようにも感じる。士農工商の時代なら、基本的には家業を継ぐわけだから、そうした種類の悩みは少なかったろう。現代の視点で見れば不自由に思えても、そうした時代には「それが当たり前」だったわけで、自由の無さをそれほど不幸には感じていなかったかもしれない。

自己実現と幸福はイコールであるとは全然限らない。むしろ当たり前の暮らしの中にこそ、幸福を見出す人も多いのではないか。それに大人の側が社会の中で若者に憧れられる存在になれば、「あの人のようになりたい!」と思わせられるようになれば、「やりたいこと」は自ずと湧いて出てくるはずだ。オレはそんなふうに思っている。

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