死刑はなぜ必要なのか? 〜光市の事件から考えてみる〜
☆今から13年間の1999年に起きた、あの忌まわしい光市母子殺害事件の犯人に、ようやく死刑判決が下される運びとなった。特に歓喜するわけでもないが、まったく妥当な判決だと思っている。被害者の夫である本村洋さんは13年もよく戦ってきたと思う。本当にお疲れ様でした。
あの事件当時、私は20歳くらいの学生であったが、今はすっかり子持ちのお父さんになっている。生後数ヶ月の子供がいて…そう、ちょうど当時の本村さんと同じ境遇なのである。あの事件はまったく対岸の火事ではなく、今こそリアルに考えることができる。考えたくはないが、もし自分が本村さんの立場だったら犯人を許す(死刑以外)ことなどあり得るだろうか?否、絶対にありはしないだろう。
このように書くといかにも過激で、当事者意識の無い人などからは死刑を推進する、非文明的な野蛮な人間のように言われるかもしれない。しかし考えてみてほしい。もし自分の家族を無残にも殺され、国家がその犯人を裁くことをせず「許してあげましょう」を飲まなければならないとしたら…マグマのように湧き上がる報復感情はいったいどこに行き場を求めたら良いのか?
あえて言うが国家は民間から刀狩りをし、暴力を有しても良いのである。逆にもしそうでなければ、警察も裁判所も自衛隊も一切機能しなければ、国家は信用に足るものではなくなり、人々は自ら武装しなければならなくなる。(銃社会であるアメリカはその例ともいえる)光市でのあのような事件がおきた場合、国家が犯人を裁いてくれないとなれば、遺族は自らの手で仇討ちをするかもしれない。本村さんがかつて「死刑にできなければ私が殺す」と言っていたが、それは過激な発言でもなんでもなく、家族を殺された「普通のお父さん」の言葉なのである。
しかしもし実際にその通りになったとしたら、それは「私闘」を認める報復合戦の社会になる。とても安心して暮らせる社会とは言い難い。だから国家は機能し続けていなければならない。もしあのような事件の際には、国家は犯人を裁いてくれるという安心感があればこそ、国民は国家を信用し、自らは武装をせずに平穏に日々を暮らすことができる。「私闘」による殺人は違法で国家による殺人は合法だというのも、そのように考えれば合点がいく。
死刑反対派、とりわけあの事件の犯人に対し死刑反対という人に問いたい。死刑(国家による殺人)に反対するという事は、「私闘」を認めるということなのだろうか?そのようなアナーキーな社会を望んでいるという事なのだろうか?さもなければ、湧き上がる報復感情はすべて「許しましょう」で、誰も彼もがそんな非暴力のイイ人になれると思ってるのだろうか?(それもやったもん勝ちのアナーキーな社会である)そして何より、もし殺されたのが自分の家族だったら…という当事者意識を持つ想像力を持っているだろうか?