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2012.03.23 Friday

死刑はなぜ必要なのか? 〜光市の事件から考えてみる〜

☆今から13年間の1999年に起きた、あの忌まわしい光市母子殺害事件の犯人に、ようやく死刑判決が下される運びとなった。特に歓喜するわけでもないが、まったく妥当な判決だと思っている。被害者の夫である本村洋さんは13年もよく戦ってきたと思う。本当にお疲れ様でした。

あの事件当時、私は20歳くらいの学生であったが、今はすっかり子持ちのお父さんになっている。生後数ヶ月の子供がいて…そう、ちょうど当時の本村さんと同じ境遇なのである。あの事件はまったく対岸の火事ではなく、今こそリアルに考えることができる。考えたくはないが、もし自分が本村さんの立場だったら犯人を許す(死刑以外)ことなどあり得るだろうか?否、絶対にありはしないだろう。

このように書くといかにも過激で、当事者意識の無い人などからは死刑を推進する、非文明的な野蛮な人間のように言われるかもしれない。しかし考えてみてほしい。もし自分の家族を無残にも殺され、国家がその犯人を裁くことをせず「許してあげましょう」を飲まなければならないとしたら…マグマのように湧き上がる報復感情はいったいどこに行き場を求めたら良いのか?

あえて言うが国家は民間から刀狩りをし、暴力を有しても良いのである。逆にもしそうでなければ、警察も裁判所も自衛隊も一切機能しなければ、国家は信用に足るものではなくなり、人々は自ら武装しなければならなくなる。(銃社会であるアメリカはその例ともいえる)光市でのあのような事件がおきた場合、国家が犯人を裁いてくれないとなれば、遺族は自らの手で仇討ちをするかもしれない。本村さんがかつて「死刑にできなければ私が殺す」と言っていたが、それは過激な発言でもなんでもなく、家族を殺された「普通のお父さん」の言葉なのである。

死刑にできなければ私が殺す

しかしもし実際にその通りになったとしたら、それは「私闘」を認める報復合戦の社会になる。とても安心して暮らせる社会とは言い難い。だから国家は機能し続けていなければならない。もしあのような事件の際には、国家は犯人を裁いてくれるという安心感があればこそ、国民は国家を信用し、自らは武装をせずに平穏に日々を暮らすことができる。「私闘」による殺人は違法で国家による殺人は合法だというのも、そのように考えれば合点がいく。

死刑反対派、とりわけあの事件の犯人に対し死刑反対という人に問いたい。死刑(国家による殺人)に反対するという事は、「私闘」を認めるということなのだろうか?そのようなアナーキーな社会を望んでいるという事なのだろうか?さもなければ、湧き上がる報復感情はすべて「許しましょう」で、誰も彼もがそんな非暴力のイイ人になれると思ってるのだろうか?(それもやったもん勝ちのアナーキーな社会である)そして何より、もし殺されたのが自分の家族だったら…という当事者意識を持つ想像力を持っているだろうか?


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2012.01.22 Sunday

脱原発と坂の上の雲

☆気がつけばあの大震災からもう一年近くになる。多くの人の心に多くのトラウマを残し、この国に大きな課題を突き付けた、戦後最大の出来事だったのではないだろうか。そしてそれに伴う福島原発事故。放射能の影響で飯舘村など一部地域では完全に人が住めない状態にもなり、多くの人が生きる術を脅かされている。

ここではっきりさせておきたいが、私は「脱原発」の立場を明確に採る。原発事故当初は、感情的な反原発論に違和感もあった。自分の仕事が主にパソコンを使っている以上、また、通信手段をはじめ生活の大半に電力を用いている以上、原発依存は避けられぬのでは?くらいに思っていた。

しかしその考えは容易く覆った。最大の要因は、火力+水力の最大出力で(1年で最も電力を消費する)8月のピーク時ですらカバーできるというデータが示されたことである。ということは、あれだけ夏がヤバイヤバイと喧伝されていた件はまったくのデマ、まんまと東電に騙されていたということになる。私のような素人からすれば、もうこれだけで答えは出ているようにも思うが、なぜか未だに原発を擁護・推進する人たちが、事故から時が経つほどちらほら散見される。

愚劣過ぎて書くのも恥ずかしいが、まずは交通事故を同列視する手合いである。交通事故では年間1万人近く死んでいるのだから、それに比べれば原発事故の死者は遥かに少ない、というものである。そしてさらに酷いのは、餅(喉に詰まらせて)で死ぬ人の方が多いのだから、山本太郎氏は「反餅運動」もやれ、といった中傷である。

確かにその手の事故の方が起きる確率としては高いだろうし、今のところ死者も多いだろう。だが原発事故は起きる確率は低かろうが、いったん起きてしまえば福島の一部地域のように、半永久的に人が住めなくなってしまう。そこに住む人々が永遠に故郷を喪失してしまうリスクすら包含していることを考えなければならない。まして、東日本大震災以降、日本列島は地震の活動期に入ったとさえ言われており、「まず起こらないだろう」などと安穏と構えていて良い状況ではない。断言するが、自動車や餅にここまでのリスクは無い。

この日本という国は明治以降、欧米に追い付くことを念頭にひたすら「坂の上の雲」を目指し続けてきた。敗戦の痛手も乗り越え、高度成長を成し遂げ、世界の経済大国になった。原発はある意味そうした成長路線のシンボルであるから、高度成長や好景気を知っている世代は未だに原発を擁護・推進するのかもしれない。90年代からすでにそうだったのかもしれないが、もはや「坂の上の雲」を目指す時代ではない。東日本大震災、そして福島原発事故はそのことをより明確なかたちで我々国民にアナウンスしてくれたのだと思う。


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2012.01.03 Tuesday

新たなる日々

あけましておめでとうございます。 本年もどうぞよろしくお願いします☆



今年からは私にとってまったく新たな日々が始まったと言って良い。 
それは父親としての日々である。そう、昨年末私は父になったのだ。

息子の名は「新(あらた)」


新しい時代を切り拓いて生きてくれるように願いを込めた。
また、新潟の「新」の字でもある。

この子が大きくなる頃、日本はどのようになっているだろうか。
今のような状況であまり楽観的な未来は望めないかもしれないが、この子が大人になるまで、
私は導いてやらねばならない。

このたび、お祝いをくださった全ての方に感謝いたします。
そして、この子を元気に産んでくれた妻に死ぬまで感謝、である。


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2011.09.11 Sunday

震災から半年・ビーディーアイの思い

☆悪夢の震災から半年が経ち、だいぶ日常は戻りつつあるが、これを書いている途中も揺れがあり、まだまだ多くの人の傷は癒えているとはいえない状態だろう。しかし皮肉なことだが、この震災があったことで、改めて日本は世界からの称賛を得ることになったと思う。自分たち日本人からすれば当たり前の事のように思っているが、世界ではこうした事が起こると火事場泥棒的な略奪が起こるのが当たり前なのだ。先日YouTubeでビーディーアイのインタビューを見つけ、そこでも彼らがそのように言ってくれていたのには感動した。


実際には被災地から物を盗むような不届き者も少しいたりはするようだし、このように称賛されたからと言ってそれで日本人自身が悦に入っていても仕方がない。日本人の秩序感覚がまったく通じない相手がすぐそばにいて、領海侵犯やらを繰り返しているのだから、この「秩序感覚」が国外ではまったく通じない事を理解しないと、日本人はただのお人よしのカモになってしまいかねないのだ。

それにしてもビーディーアイは、よく震災から間もない時期にチャリティをやってくれたものだと頭が下がる。アクロス・ザ・ユニバースを歌うリアムの姿をニュースで見た人も多いのではなかろうか。ビーディーアイはとかくオアシスの残党と見られがちのようだが、最近どうもそうではないなと思うようになった。人員的には「ノエル抜きオアシス」なのだが、バンドの姿勢はもはや大きく違っているように感じる。過去の成功のプレッシャーに気負うことなく好きな音楽を伸び伸びとプレイしているように感じるし、リアムのボーカルもオアシス末期よりかは明らかに良くなっている。

これからもこの国は苦難の道を歩くことになるのだと思うが、それでも私は自分が日本人であって本当に良かったと思っている。彼らのような存在に Love For Nippon(Love For Japanでなく)と言ってもらえるのだからな!


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2011.08.28 Sunday

さらばテレビジョン

☆夏のある日のこと、ふとテレビをつけてみると何も映らない。砂嵐である。そうか、7月24日をもって完全に「地デジ」移行してしまったのか!我が家のテレビは今や「DVD再生用モニター」である。しかし私はそこですぐに「地デジ化」をしなければ!という気にはどうしてもなれなかった。ここ5年近く、テレビを日常的に見ることは少なくなっていたので、そのために出費をする気にはどうしてもなれないわけである。

生活に必要な情報、ニュースや天気予報はネットで十分である。というか、テレビ人の恣意的なコメントはかえって不要ですらある。バラエティやスポーツはもともと見ないし、映画がみたければDVDがある。音楽はユーチューブがある。この10年、テレビのコンテンツ自体が劣化し、テレビ草創期やお笑いブームの時のようなスターは出にくくなっているのに加え、それまでの役割の多くがネットに取って代わられている。私にとってテレビはもう半ば「終わったメディア」なのである。

さらばテレビジョン

もちろん完全に「終わった」わけではなく、今年の震災の際など、非常時にはやはり頼りになる部分もあった。しかし、地デジの電波は災害に弱いというではないか!これは未だ余震の続く東北地方の方々にとって、不安以外の何物でもない。

そもそもなぜ地デジ化なのか?という事については、画質が良くなる云々というよりは、欧米はすでにテレビのデジタル化を完了させているから、日本もそうしないと輸出産業が成り立たない、というものである。それならば尚のことコンテンツの質を上げなければならないのだが、現状は劣化しきっているから「若者のテレビ離れ」などと言われ視聴率が取れず、スポンサーがつかず広告収入が減り、その結果製作費を捻出できずますますコンテンツを劣化させる、という悪循環に陥っている。フジテレビなどは韓国から安いコンテンツを買ってそれを放送しまくり、その結果それがド顰蹙を買い、デモまで起こされている始末である。

地デジがもう10年早かったら、私も迷わず電気屋へ走っただろう。しかし、今は年配者を除く多くの人が「ネット感覚」に慣れている。一昔前のようにテレビが常にブームを発信しているような、そんな影響力を持つ時代ではなくなった。今は誰もが均一な情報を一方的受け身で享受する時代ではなく、自分の意志で情報を取捨選択する時代なのである。テレビがこのまま凋落するのか、何らかの復調を見せるのかはわからないが、その「在り方」そのものを変革させなければ、存続は厳しいであろう。

15:05 | - | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
2011.07.02 Saturday

「脱原発」の前に考えること

☆常に追いかけてくる現実を前に考えることを放棄しがちだが、日常に埋没するのみでは真実から遠ざかってしまう。また原発について考えてみる。これから日本は段階的であれ「脱原発」を志向することになるのだろう。そこにほぼ異存はない。しかしそれには「覚悟」が必要である。経済成長を犠牲にする覚悟、今までより生活が不便になるだろう覚悟である。私を含め、日本人にはまだその「覚悟」ができてはいない。6月の暑さでも、もう音を上げてしまいそうな体たらくである。代替エネルギーの研究も進んでいるそうだが、すぐに原発に取って代わるものにはならないだろう。


今まで「反原発派」だった人たちは「それ見たことか」と思っているだろうか?しかし彼らとて大半は原発の恩恵を受けて「豊かさ」を享受してきたはずである。世捨て人かロハスのような生活を営む人の方が稀だろう。戦後の日本にとってはまず国民生活を立て直し、「豊かさ」を得ることが目下の課題だったはずであり、原子力エネルギーは明るい未来をもたらすものと思われていたはずである。高度成長期に作られた多くのSF作品がそれを物語っているし、何せ鉄腕アトムの妹の名前は「ウラン」である。今まで原発を推進してきたとして自民党責任論がちらほら聞こえるが、「豊かさ」を求めたのは国民の側であって、仮にその当時民主党が存在して政権を取っていたとしても、やっぱり「国民の生活が第一」で原発推進したのではないかと思ってしまう。

私たちに必要なのは「覚悟」である。食料品や水に不安は拭えないが、日本はこれで放射能初体験というわけでは全然ない。中国や旧ソ連の核実験により、過去何度も放射能は日本に飛来している。もちろんそれ以後日本人の死因1位が癌になったりと、健康被害は甚大であり、「過去にも来ているから大丈夫」と楽観視するわけでは全くない。要は「心の持ち様」だと言いたいのである。

すでに国外退避した人にも言いたいが、この世界に「まったく無害で安全な場所」なんか存在しない。もっと言えば「世界は何が起きても不思議じゃない」のである。例えばこの間にアメリカはリビアで戦争をおっ始めているし、中国はチベットを依然弾圧し続けている。戦後日本は安全保障を蔑ろにし、「なあなあ」の平和を「なんとなく」やり過ごしてきたに過ぎなかった。「終わりなき日常」はとっくにピリオドを打っているのだ。

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2011.06.26 Sunday

Go to Jail!!!

☆先日、ホリエモンが収監されたそうである。有罪で実刑食らった有名人はほかにも多くいるんだろうが、私はどうしてもこの男が好きになれない。胡散臭さやいかがわしさがプンプン漂っていると思うのだが、かつてメディアは彼を「時代の寵児」とまでもてはやした。もうこれで完全に「過去の人」だが、最後の最後まであのふざけた態度を変えることはなかったようだ。

人生をリセットしてまた社会の役に立ちたい

仲良しのひろゆき氏も一緒に登場したので、もしや一緒に収監!と思ったが、収監はホリエモンだけのようである。「人生をリセットしてまた社会の役に立ちたい」そうであるが、「社会」がそれまで彼を覚えているかどうか。

22:02 | - | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
2011.05.11 Wednesday

日本復興の青写真

JUGEMテーマ:日記・一般

☆未曾有の大災害となってしまった東日本大震災から早や2カ月。5月の時点で死者・行方不明者は2万人を超え、まだまだ被害の全容が見えたとは言い難い。怪我の功名であるが、日本人の多くが危機管理意識を高める契機になったと思う。それと同時に、普段は見ることのない「近代文明の脆さ」も露呈される結果になったように思う。

普段、私たちは電車や車に乗って移動をし、携帯で人と連絡を取り、コンビニでモノを買う。そのような当たり前の日常も、ひとたび事が起これば脆くも崩れ去ってしまう。道路が寸断されれば交通機関は止まり、燃料や電力の供給が間に合わなければ、エネルギーを消費することすらできなくなる。結果、物流はストップによりコンビニの棚はガラガラになり、買い貯め等のパニックが起こる。国外逃亡者も出る。持っていれば「なんとなく安心」の携帯も、震災直後はまったく役に立たなかった。「文明は案外脆い」のである。

管総理は一連の震災・原発事故の対応を批判され「初めてのことだから」と釈明した。実に興味深い事だが、阪神大震災当時の村山首相もほとんど同じように「初めてのことだから」と発言している。これが意味する事は何かと言えば、「有事を想定していない」という事である。そもそも今の憲法が「有事を想定していない」からしょうもないのだが、民主党政権になってからはますますその傾向が強まり、「事業仕分け」という安易なコストカットパフォーマンスで、公共事業を一切合財カットしてきたわけである。ただ忘れてはいけないのは、そうした政権を選んだのも、他ならぬ国民自身だということだ。

なにぶん初めてのことで…

この国は戦後右肩上がりの経済成長を続け、90年代以降は国家目標を失い「失われた20年」を経てきた。今私が思うのは、ここがまた大きな曲がり角ではないかと言う事だ。今の若い人を「草食系」と揶揄する向きもあるが、大量生産・大量消費のバブリーな感覚を人々はもうそれほど望んではいないはず。もうすっかりコンビニの照明が落ちている事にも慣れ、逆に今までがエネルギーを消費し過ぎていたと、多くの人が感じているはずだ。原発も少しずつ減らして新しいエネルギーを模索するのが望ましいだろう。

日本が「坂の上の雲」を目指す時代はもう終わりであって、いつまでも高度成長期やバブルの頃を基準に「不況だ不況だ」と嘆いていても始まらない。だからこの震災から「日本を復興させる」と言う時、単に元に戻すという事だけではなく、今後どのような国家ビジョンを描くことができるかが肝要になってくると思う。果たして現政権にそれができるか。

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2011.05.04 Wednesday

ゴールデンウィークとビン・ラディン死亡

☆世間はゴールデンウィークであるが、こういうのは本来嫌いである。休み明けに必ず呆けた気分になってしまうから、なるべく仕事をするように努めている。しかし、世の中全体がストップしていると、こちらも仕事を進めように進められない状況になってしまう。どうせ休み明けは慌ただしくなるというのに、今のこの退屈さが無駄なようでなんとも嫌である。

それに、「昭和の日」「憲法記念日」がろくに意味も顧みられないまま、「休日のひとつ」とされている点も嫌である。ミソもクソもいしょくたで「ゴールデン」とは笑わせる。

さて、つい先日オサマ・ビン・ラディンが殺害されたとの報道があった。一報を聞いた時、「本物か?影武者じゃないのか?」と思ったが、どうやら本人に間違いないらしい。それにしても驚く(というか呆れる)のは、ビン・ラディン死亡の報を聞いて狂喜するアメリカ人の姿である。改めて、野蛮で単細胞で独善的な国だという認識を強くした。これでオバマは支持率を上げることだろう。


「ナショナリズムがある」点では、日本人はアメリカを見習う点も確かにある。しかし、それが常に何かをスケープゴートにし、排外主義的にしか結束できなければ、それは悪質なナショナリズムと言わざるを得ないし、自らを省みることもない、1ミリたりとも自分たちの正義を疑うことのない独善さには反吐が出る。「チベットを開放してやった」と公言する中国のナショナリズムと何ら変わらないものと言えよう。

アルカイダは間違いなく報復に出るだろう

アルカイダは間違いなく報復に出るだろう。彼らの「聖戦」はまだおわってはいない。それでも日本は相変わらずアメリカに追従せざるを得ないのだろう。そこが日本人として何より悲しいことだが。


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2011.03.31 Thursday

非常時における「強者」と「弱者」

JUGEMテーマ:日記・一般

大震災から2週間以上が過ぎた。被災地は未だまったく予断を許さぬ状況が続いているが、東京の町は物流も戻り、少しずつ「日常」が戻りつつある。何もかもが自粛ムードに覆われてしまっているが、経済活動を止めてしまっては、結局は復興のためにならない。そう思うことにして、仕事に集中するようにしている。微々たることであるが、それが自分にできる復興支援だと思っている。私のようなまだまだ自分たちを守ることに精いっぱいの「弱者」には、それが限界です。

最近、勇敢にも被災地へ物資を届けに行く、という人がネットで散見されるが、いざという時自分を守れるだろうかと思ってしまう。自分自身を守ることには事足りて、さらに他者をも守れる「強者」であるとは思われないのである。日常から乖離し、「何かしなければ」に囚われ過ぎているようにも感じる。芸能人が何千万・何億単位で寄付を表明しているが、あれは「強者」だからこそできる行いだろう。日本にはまだまだ余力のある「強者」がいるはずなのだから、彼らがもっと支援を表明し「弱者」を安心させ、そして危険に晒されることのないよう切に願う。

この先もどんな危険があるかはわからないが、この日本に住んでいる以上、ある程度諦観するしかない。私は当然日本を捨てるつもりも、この町を離れるつもりもない。すべては一蓮托生である。あくまでも「日常」を捨てず、生活者の視点を捨てず、地道に成すことを成し、祈るだけだ。

これからも皆が相携え、いたわり合って、この不幸な時期を乗り越えることを衷心より願っています。


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